9月1日で関東大震災から100年目を迎えた。
先祖がこの震災に遭遇したわけではないが、
私が育った本所界隈は区域の約95%を焼失するという
甚大な被害を受けており、街の記憶として伝承されてきた。
焼け野原からの復興を切っ掛けにして造られたものも多く、
それらに囲まれ育ったので今の私は帝都復興と切り離せないと感じる。

例えば私の通っていた江東学園幼稚園は東京都慰霊堂の目前にあったので、
幼い頃からこの慰霊堂に慣れ親しんでおり、
(この表現が妥当か分からないが、自分にはしっくりくる)
砂利が敷かれた境内で鳩の集団を追い散らしたものだ。

東京都慰霊堂がある横網町公園
幼稚園自体は築地本願寺系の慈光院というお寺に併設されたもので、
本堂でお泊まり会があったり、花まつりの日には
本願寺の稚児行列に参加して築地の大通りを練り歩いた記憶がある。
慈光院と幼稚園の沿革は当時知る由もなかったが、震災復興支援として
築地本願寺が設けた説教所、託児所から発展したものである事を最近知った。
本堂は普通の寺社建築だったが、7年前に建て替えられ、
その新しい姿に愕然とした。本願寺を模したインド風の意匠はまだ良いとしても
2階へと続く折り返し階段や鐘楼まで一緒くたにするセンス・・・
特に大きく張り出した鐘楼が不恰好でアンバランスさを強調している。
卒園生としては在園時から変わっていない園舎から新築した方が
良かったのではないかと思う。

以前の慈光院本堂と鐘楼 奥に幼稚園舎がある

新築された本堂に言葉も出ない

こちらは左右対称で美しい築地本願寺
それはさておき、東京都慰霊堂は近年リニューアルされて
照明も随分明るくなったが、以前は薄暗く、煤けた堂内で震災絵画や
戦災写真などを見ると戦慄が走ったものである。

リニューアル前2011年の慰霊堂

リニューアル後の慰霊堂

震災絵画
この慰霊堂と築地本願寺はどちらも伊東忠太独自の折衷建築であり、
お得意の幻獣がうようよいるが、私はこの幻獣たちに見守られて
育ったとも言える。東京都慰霊堂は昭和5年、築地本願寺は昭和9年の竣工で、
昭和6年竣工の復興記念館(慰霊堂の付帯施設)のファサードにも幻獣がいる。

慰霊堂の妖怪マモリュウ
復興記念館の妖怪たち
そして幼稚園の隣りにあった墨田区役所(旧本所区役所)。
これもまた昭和5年竣工の近代建築で古びてはいたが、
大きなアーチ窓が連続する優美な建物であった。
この建物は区役所の移転に伴い解体されてしまったが、
映画『男はつらいよ 噂の寅次郎』に於いて
マドンナの大原麗子が離婚届を提出するシーンで見ることが出来る。
跡地には第一ホテル両国が建った。
現在江戸東京博物館が建っている場所には東京都の青果市場があって
「やっちゃば」と呼ばれていた。このやっちゃばも震災後に
応急施設として臨時江東青物市場を設置したのが始まりで
昭和2年に近代的な設備を持つ東京市市設江東青果市場となり、
昭和10年築地に中央卸売市場が開場するとその江東分場となった。
昭和59年、葛西市場新設に伴い廃止統合され、
その跡地が江戸博や国技館に転用されたのである。

余談であるが、その江戸博に突き当たる形で北斎通りがあるけれど、
これも昔は割下水通りと呼ばれていた。
江戸時代に湿地帯を造成して出来た本所は水はけが悪く、
雨水を排水する為に道の中央に幅2間の排水路、割下水を作ったのである。
この周辺は葛飾北斎が生まれ転居を繰り返した所であり、
すみだ北斎美術館の開館に伴って北斎通りと名付けられたが、
古い名称も捨てがたい。『鬼平犯科帳』にもこの割下水は出てくるのだ。
昭和初期に暗渠となったとあるから震災時にはまだ水路が残っていた事になる。
両国4丁目にある北斎住居跡の看板
すみだ北斎美術館で再現された娘・お栄(葛飾応為)との暮らしぶり
北斎の門人である露木為一が描いた「北斎仮宅之図」が元になっている
子供の頃よく遊んだ両国公園は調べると昭和4年開設とあるから
これも復興公園だろう。園内にはコンクリート製の巨大な円形滑り台があり
表面は所謂「人研ぎ」であった。この人造石研ぎ出し仕上げも
復興建築に欠かせないもので石材が高価だった時代の創意工夫と聞く。
尤も左官職人の技術力が高かったからこそ出来た産物でもある。
幼い頃この滑り台を駆けて遊んでいたら滑って額から流血し
母に抱かれて病院に運ばれた記憶がある。
巨大な滑り台が鎮座する両国公園 入口も復興公園によく見られるデザイン
因みにここは勝海舟生誕の地でもあったし、近くには吉良邸跡もあった。
京葉道路の方にも芥川龍之介生育の地の案内板がある。
この界隈には歴史上の人物がたくさんいたのである。
幼稚園を卒園した私は墨田区立緑小学校に入学する。
この建物もまた昭和4年竣工の復興小学校建築であった。
復興小学校は復興事業の一環として、被災した小学校を
鉄筋コンクリート造で再建したもので、
東京市では117校が復興小学校として建て替えられている。

復興小学校の地図から 中央付近に緑小学校 赤丸の塗り潰しで全壊・余白で半壊を示している
残念ながら私が卒業した3年後に校舎は解体されてしまったが、
僅かに施されたアール・デコ装飾やアーチ窓が印象に残った。
今年開催された台東区の復興小学校解体前の見学会でも
同様のデザインを見つけ、強い郷愁を覚えたところである。

中央区立常盤小学校

解体前の台東区旧下谷小学校
年々数を減らしている復興小学校だが、未だ現役が4校、廃校後に
再利用されているものが数校あって、表現主義、アール・デコ、
インターナショナルスタイルなど様々な意匠も見逃せない。
緑小学校の正門前には平和荘というRC造りのボロアパートがあったが、
これも今になって思えば同潤会アパートを小さくした様な戦前建築であった。

解体された同潤会上野下アパート
京葉道路と清澄通りが交わる緑一丁目交差点には比較的最近(2016年頃)まで
アール・デコ様式のモダンな松山ビルディング(昭和4年竣工)が建っていた。
馴染み深い近代建築であったが京葉道路拡張に伴い解体されたという。
末期の松山ビルディング 右隣の緑タイルの建物はかつて果物店だった
玄関にはモザイクタイルが敷き詰められていて優美な階段が訪問者を誘う

竣工時のものか不明だが階段室にはステンドグラスが嵌め込まれていた
そしてこの町の玄関、両国駅の西口駅舎も昭和4年の竣工である。
幼少期にここから始発の急行に乗り房総方面に遊んだ事を覚えている。
当時は国電のホームに繋がっておらず薄暗くて閑散としていた。
三連アーチ窓の中央上に時計が収まるファサードには
ささやかながらアール・デコ調の意匠があり、
その右手には縦長の細窓が3-3-2-2とリズミカルに配置されている。
設計は鉄道省建築課。

始発駅の役目を終えた後は暫く閉鎖され
のちにビアホールや居酒屋などとして活用されていた
現在は複合飲食施設『江戸NOREN』として営業中
伊東忠太の幻獣建築に始まり、佐野利器らによる復興小学校、
隅田公園や錦糸公園などに代表される復興公園、
山田守や山口文象らによる復興橋梁、
鉄筋コンクリート造のモダンなビルディングやアパート、
そして看板建築・・・この様に幼少期には
戦禍を潜り抜けた震災復興建築がまだ残っていたのである。
それがバブル期に入ると古きものは悪しきものと見なされ、
多くが解体されてしまった。その心残りが現在の私に作用して
失われつつある帝都東京の姿を留めたいという気にさせるのだろう。

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